患者に寄り添うホスピス医療
人生の最後をどこで、どのように迎えるかは大きな問題である。特に癌患者にとっては。誰もが自宅で迎えたいと思うに違いないが、それが叶わないならせめて最期を迎えるまで穏やかに過ごしたい。そう願うから終末医療としてホスピスを選ぶ人も増えている。私の妻もそうだったし、弟もそうだった。
ホスピスに入院したいと言うと表立って反対はしないものの「あそこでは治療は何もしませんよ」というニュアンスの言い方をする医師がいまだいるのも事実だ。早い話が、ホスピスは死を待つだけの場所だと言いたいわけだ。医療とは病気との闘いだという考えに立てば、そうかもしれない。
弟も手術をした総合病院で「闘って下さいよ」と言われた。闘うとは、抗癌剤や放射線治療などを駆使し、癌細胞を攻撃することである。相手(癌細胞)が強ければ強いほど戦闘は激しくなる。戦線が拡大することもあるだろうし、被害が非戦闘員(癌細胞以外)に及ぶこともあるだろう。被害は敵味方双方に及び、戦場(体内)は焼け野原の様相を呈するかもしれない。それでも戦いに勝つ道を選ぶ人もいるが、別の道を選ぼうとする人もいる。
例えば弟は抗癌剤の副作用により日常生活に支障が出るより、癌による痛みをコントロールしながら、残りの人生をできるだけ普通に過ごしたいと考えた。実際この方法はうまくいき、好きなゴルフを楽しんだり、家族と国内外旅行に行ったりと、一見癌患者とは思えない生活を送っていた。
それでも癌が膵臓から肝臓、リンパ節に転移し、再手術も難しいと言われると、最期はホスピスで迎えることを選択。それまで入院していた総合病院の看護師の対応が悪く、イライラしていたこともあり、「入院していてストレスが溜まるようなら転院した方がいいだろう」という私の言葉を聞くとすぐホスピスに転院したのだった。
「患者に寄り添うかどうかが一般病院と大きく違うところだ」
ホスピスについて問われ時、私はそう答えた。それは私自身の実感だったからだ。少なくとも点滴注射を何度も失敗し、シーツが血で赤く染まった後や、コールしてもなかなか来ない看護師、木で鼻をくくるとまでは言わないが、素っ気ない態度での接し方を実際に見聞きすると、少なくともこの総合病院からは移った方がいいと思えた。
転院したホスピスは神戸アドベンチスト病院。「地獄から天国に来た」。転院直後、弟はそう言って喜んでいたが、ここまで患者に寄り添い、患者の心を穏やかにできるものかと私も驚いた。
病室には弟のお気に入りの持ち物や家族の写真、看護師達と屋上で写した写真などが飾られており、病室というよりは自宅の1室というイメージになっていた。こうしたところにも患者の心を和らげようという配慮が見られた。
看護師達はやさしく、「白衣の天使」という言葉はこういう人達のためにあるのだろうと思えた。感動したのは痛みを和らげるためか足の疲れを取るためか、弟が頼むと足の裏を手で揉んでくれたことだ。それも一人ではなく他の看護師も同じように毎日揉んでくれているようだが、仕事の義務感でできることではないだろう。
医療の目的は人を健康にすることであり、対処療法的な治療ではなかったはずだが、近代医療は専門化、細分化、高度化の歴史であり、植物状態であろうとも生かし続ける(死なせない)ことが目的になっている。そこには人の生や死に対する尊厳さはなく、患者は肉体的な治療の対象でしかない。
人は物(物質)ではない。生も死もその人の歴史であり、肉体は精神(魂)を切り離して存在しているわけではない。精神(魂)の救済なき肉体的な治療は真の治療とは言えないだろう。にもかかわらず近代医療はますます肉体の治療のみに邁進し、心身ともに治療するという医療本来の目的とかけ離れつつある。
こうした考え方に異を唱える動きがまだまだ少数ではあるが存在している。ホスピスの考え方もその一つではないかと思う。
例えば神戸アドベンチスト病院は「心と体の調和のとれた医療、すなわち、単なる身体的な癒しだけでなく、心や魂(たましい)の痛みに触れる医療を提供する」と理念で謳っている。
ところで、ホスピスの多くはキリスト教系である。なぜキリスト教系が中心で、それ以外の宗教、例えば仏教系はないのか。そのことに疑問を感じていた。
宗教の究極の目的は魂の救済である。葬儀を執り行うことでも、金儲けのために各種事業を行うことでもないはず。にもかかわらず、寺と僧侶が力を入れているのは墓地や幼稚園、駐車場等々の経営のように見える。同じ宗教でこの違いはなんだ、と常々思っていたので、今回調べてみた。
すると、仏教系ホスピスも少数ながらあった。「ビハーラ病棟」というのがそれだが、歴史はまだ新しい。
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